<語り>とは

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「朗読」「朗読劇」と「語り」の違いについて

私は研究者ではありませんので、大雑把な成美流解釈でしかお応えできませんが。

 

「朗読」とは

アナウンサーがよくされるような、原文に忠実に、余り感情を入れずに文章を読む手法、とでも申しましょうか。
地の文(会話ではない、物語の情景や説明的な文章)は、さらりと状況説明的に読み流すことが多いでしょう。人物ごとの台詞も、余り色分けをしません。人物の違いが際立つような声の変え方はあまりせず、感情移入をさほどしないで読みます。

 

「朗読劇」とは

いわゆる演劇は、台本を持たずに演じられ、幕ごとの、あるいは場面展開による背景セットが組まれます。ほとんどの朗読劇は、人物ごとに舞台衣装くらいは着ますが、演劇のような大掛かりなセットが組まれることは少なく、台本を持ち読むような形になります。
読み手が一人のこともあれば、群読(ぐんどく)と言って、登場人物の何人かがパートごとの読みをすることもあります。一人で何役かをこなす場合も見受けられます。
地の文は読まず、台詞で補うことが多いように思われます。あるいは、ナレーションの人が、かいつまんで状況説明したり、物語を端折って先へ進め、地の文を読む替わりをすることもあります。
「朗読」<語り>によらず、効果音やBGM、簡略な背景セットが使われることもあります。
スクリーンに映像を映し出し、物語に関連付けた演出がなされることもあります。

<語り>とは

「朗読」「朗読劇」と明らかに違うと思われますのは、<語り>では、地の文も、単なる説明ではなく、シーンの背景(人物の心模様や場面展開の意味等)が分かるように、きちんと語ることです。  
人物ごとに声音を変えます。同一人物でも、場面により、話し方やトーンを変えたりもします。
同じ武士でも、同胞との屈託ない語らいの場面と、評定での物言いは違ってきます。現代でも、気の置けない友人との飲み会と、会議の席では話し仕方が違うのと同様です。
武士なら、語り口で階級の違いも表さなければなりません。殿様と下級武士の違いが、明らかになる口調にします。
これがまた、無礼講の場面なら、弁えつつも堅苦しさを脱いだ語り口に、と言った具合に語り分けます。語り分けることで、その場の状況や相手との心理的距離感をも、聴き手に知らしめます。
声の大きさや声のかけ具合によって、相手との物理的距離感を表現します。こうした声表現の描き分けにより、その場面に臨場感が生まれ、映像を見るようにお心に焼き付くのです。
地の文も、感情を込めて読みます。「菜の花畑を見つめていた」という一文でも、その人物がどういう気持ちで見つめているかが分かるように、哀しい気持ちなら哀し気に、楽しい気持ちなら心弾む調子で、<語り>ます。聴き手は、登場人物の心模様を感知し、物語の理解が深まっていくのです。
春の描写は、一般的に明るい声で、冬の凍てつく情景なら寒々とした声で、温度感が伝わるような読みをしなければなりません。逆に、春の光景であっても心が沈んでいるなら、明るい景色を暗いトーンで読むことにより、そこに佇む人物の内面描写をします。
地の文は、単なる情景描写や状況説明ではなく、心象風景として捉えるのです。
そこが、朗読との一番大きな違いと申せましょう。私はよく、恩師から、「地の文意識で読むな、人物の内面が分かるように語れ」と、ご指導戴きました。
地の文に込められた心模様を、聴き手に伝えることが重要なのです。それが<語り>です。
聴いて下さったご感想で、「自分で読んだ時にはよく分からなかったことが、成美さんの<語り>でよく理解できた」「気付けなかった物語の真髄を理解できた」と、仰って戴くことが間々あります。
自分で読んだだけですと、地の文は説明として素通りしてしまうことが多いように思われますが、「ここはこうした意味が含まれている」という感情表現をすることで、作者が地の文に込めた意図が明確に伝わります。
その積み重ねで、物語の進展につれ、主人公たちの心模様の経緯が深く理解でき、それぞれの人物が鮮やかに聴き手の中で造形化されてゆきます。
また、「このシーンは、先のあのシーンへと繋がる」「この出来事は、次なる展開の布石」ということが分かるように、物語を俯瞰して語るようにも心掛けています。
語られた心象風景の連鎖により、知らぬ間に、作品の真髄がお心に沁み入るのだと確信します。
「映像として物語が心に泛ぶ」「情景を目の当たりにするよう」と言って戴けますのは、述べてきましたことが表現できたということで、語り家冥利に尽きます。

朗読の中の一分野として、<語り>という手法は昔からあったと、恩師:坂井清成(さかい・きよしげ)先生からは伺っております。坂井先生こそが、<語り>の第一人者と申せます。
私が主催しております「成美会」という舞台を、お知らせするフライヤー(ご案内チラシ)裏の<語りとは>には、以下のようにご案内しています。
登場人物・その心模様を声の表情で演じ分け、会話ではない地の文にも人物の心象風景を投影した読みをし、独り芝居のような劇的朗読法。本公演も「語り」で行います。語り家の世界観で聴く名作をお楽しみください。

  • 朗読は、一定のペースで淡々と読まれます。
  • <語り>は、状況や人物の心模様によって、変わります。

心逸るなら、急くようなテンポで。会話が飛び交うような場面では、人物の特徴に合わせ口調のリズムを変えます。戸惑うような気持ちは、とつとつと緩いテンポでとぎれとぎれのリズム・・・。
合戦場面では講談のように、息もつかせぬ緊張感あるテンポと迫力で、戦いの躍動感を表現します。
このようにして、緩急のテンポと多彩なリズムを使い分けることで、心象風景と状況を表現します。

  • 朗読では、<間>は、次への「単なる一呼吸、合間」に過ぎません。
  • <語り>では、<間>こそ大切で、「物言わぬ言葉」としなければなりません。

そのための文の収め方

語尾の<語り>方に、次の<間:ま>への意味が含まれなければなりません。
「・・・た」は、ただの状況説明とするか、次への布石として人物の心情(哀し気、弾む想い等)を乗せ飲み込んだ気持ちを伝えるか、終わり方で次への繋がりが出てもくれば、区切りにもなります。
そしての<間>という余白は、重要シーンにおける感動の余韻となります。
一方、聴き手それぞれが、シーンの意味や物語を咀嚼し深奥を解釈する時間であり、場面転換への心の切り替えができます。
シーンにおける情感の余韻を残すことは、<語り>において重要課題と申せます。

朗読では、感情や読み手の解釈を加えることなく、淡々と字面を追って読んでいきます。
<語り>では、語り家が、作者の意図や物語の核を読み解き、物語をどう解釈するかに従って、<語り>の構築を織りなしてゆきます。
西條奈加『冬虫夏草』を例に挙げますなら、吉を単なる毒母として切り捨てるか、そうなってしまった身の哀れに寄り添うかで、人物像の描き方が変わってきます。心情の吐露も、解釈に従った<語り>に。
物語の深奥への迫り方、解釈の仕方が、「語り家の世界観」となります。
名画を観ましても、感じるところは人それぞれであるように、語り手によって作品の真意へのアプローチの仕方や核心の解釈も、変わります。
聴き手は、こうした<語り家の世界観>に導かれて、作品を理解することになります。
それは一つの解釈にしかすぎませんが、提示されることによって、各人の解釈の手掛かりとなりましょう。
物語を読んでから<語り>を聴く方(予習派)は、共鳴したり、そうした捉え方もあったかと新鮮な驚きを感じたりすることになりましょう。
聴いてから原作を読む方(復習派)は、作品と対峙し、叩き台である<語り家の世界観>を、改めて問い直したり、一層の深奥に迫り、作品の本質を理解されたりすることでしょう。
初めは、この作品をどう表現するのかという批評家目線のような予習派だった方が、次第に復習派へ転向されています。物語の落としどころを知らずに、どっぷりと<語り家の世界観>に浸りたい、成美ワールドを堪能したい・・・というのが主眼で、語り家冥利に尽きる嬉しさです。
一方、ラジオ朗読のような色のない朗読に慣れている方は、面喰うこともおありのようです。
「語り家の世界観」で魅せます<語り>は、好悪の分かれる特殊な世界かもしれません。
<語り>が、朗読とは明らかに一線を画すことが、お分かり戴けましたでしょうか。

初めは、朗読教室として、坂井先生に入門しました。初心者クラスを終了し上級クラスへ上がります時諸事情生じ、個人教授の生徒にして戴きました。初心者クラスでは、数名一クラスで先生から与えられたテキストを勉強しました。個人教授となりましてからは、私の勉強したい作品を持ち込むことになりました。初心者クラスでは、多岐にわたるジャンルの様々な作家の作品を読みましたが、中でも心に響きましたのが、藤沢周平や山本周五郎でした。
個人教授では周五郎作品を続けて勉強し、そこで初めて、<語り>の世界を知りました。入門授業では、朗読の域を出ず、技術習得もごく初歩的でしたから、<語り>には遠く及びませんでした。
朗読の基礎が出来なければ、一層の技術力と鍛錬が必要とされる<語り>には、到達できないからです。個人授業となったお蔭で、本格的に<語り>を勉強することになりました。
修練の甲斐あって、入門して8年目の2009年から、先生の前座として舞台に立たせて戴くようになりました。先輩方ご出演の合間に入れて下さり、ほぼ2年に一度、6回を重ねました。
そして、2019年の舞台後、先生から「プロとして独立し自分の会を持たないか」とお薦め戴き、「成美会」を立ち上げました。「成美会」は坂井先生のご命名。初舞台から10年目の節目でした。
2021年旗揚げ公演の主演目に据えたのが、『藤十郎の恋』。「プロでもなかなかやりたがらないような難しい作品をよくやる気になった。旗揚げ公演には相応しい文芸大作」と、仰って戴きました。
「<語り>としてやるのは、あなたには無理だ」とも言われ、始めは、朗読として稽古していました。私の熱意が伝わり進歩もあったからか、<語り>としてのご指導に変わりました。
そこで感じましたのは、作品の真髄を伝えるには、朗読ではなく、<語り>でなければならないということでした。主人公たちの心模様を伝えるには、やはり感情表現が必要不可欠に思われました。  
私自身、登場人物に感情移入しなり切ることで、物語世界へ没入できる気がしました。人物をどう演じるか、状況をどう臨場感を持って伝えるかは、自己表現でもあります。
<語り>に拘る理由は、そこにあります。朗読へ一度戻ったことで、気づくことができました。
私には、朗読よりも、自分の想いを伝えられる<語り>が向いていると、強く思いました。
演目の選び方に通ずることですが、私の人生のある季節と出来事にリンクして、その時々の心模様と重なる物語が、響いてくるように感じています。自分史に起きた出来事と関わる心情を、作品の登場人物たちの心象風景に投影し、共鳴し合うとでも申しましょうか。
菊池寛『藤十郎の恋』における藤十郎の生き様は、決して許せるものではないと、以前は思ってい
ました。それが、旗揚げ公演の演目選びにあたり、藤十郎の芸に対する執念ともいうべき役者魂、新境地を開きたいという必死の想いが、独り立ちしようとする自分と重なりました。これ程、今の自分に相応しい作品はないと鷲摑みされました。以前は、自分がやる物語ではないと思っていましたのに。
けれど、藤十郎の、女心を踏みにじってでも芸を極めたいという卑劣さは、どう贔屓目に見ても納得できず、対極である男の純真を貫いた山本周五郎『青竹』を、もう一つの演目に据えました。清濁併せることで、バランスを取ったといったところです。
「こんな話、成美さんがやっちゃうの?!」という皆様の戸惑いへ、聴いてほっこりする従来路線もご用意した、ということでもありました。
聴き手は、私をよく知る方がほとんどで、その生き様に照らして聴いて下さるところもあります。人生をどう捉えているか、人間の在り様をどう考えているか、作品を通して私の人生観を語ってきたとも申せます。ですから、今度はどんなことを示唆してくれるのか、というご関心・ご期待もあると思われます。
そうした意味でも、メッセージ性のある物語に惹かれます。旗揚げ公演となりましてからは、私なりの物語の読み解き、作品へ込めた想いを、終演後に「語り家ご挨拶」としてお話しすることにしました。
物語への理解を深め、一層の歓びを伴って余韻を味わって戴きたいと考えています。
お帰りの道すがら、録画やYouTubeですなら視聴し終えお茶でもお飲みになりながら、作品を俯瞰し、ご自身に照らし合わせ、作品テーマと向き合って戴けましたなら、至高の歓びです。

<語り家:かたりか>という名称について

<語り>のプロとして独立し成美会を旗揚げする際に、「語り家」という名称を、著名なクリエイティブディレクター:U氏が名づけて下さいました。
<語り>を専門とする者として、U氏の造語と伺っております。音楽家、落語家と言った呼称と同じです。
ごく狭い範囲での認識ですが、「語り家」という名称を聴いたことはありません。検索しても出てこないところをみますと、「語り家」を名乗る第一号:初代語り家とは申せましょうか。
U氏からは、私がこの名称を使い続けるお許しを戴いております。